しわの途中過程
軸は政策委員会である。
新法では総裁、副総裁二人のN銀執行部のほか、民間から六人の有識者が審議委員として加わる。
合計九人。
名実ともに金融政策の最高意思決定機関となる。
旧法時代の政策委は、大手銀行、地方銀行、商工業、農業の各業界代表四人と総裁、政府代表二人の七人で構成した。
ところが、実態は総裁以下のN銀幹部で構成する円卓で決めた政策を、政策委が事後承認する形が多かったとされる。
政策委が「スリーピング・ボード」と郷撒された由縁だ。
N銀法改正の評価については、筆者の著作を含め、すでにいくつかの文献が世に出ており、ここで改めては触れない。
政策委が本当にスリーピングだったかどうかも議論はあるが、それも深く追わない。
F自身は法施行後約一年八カ月たつと、副総裁から総裁に昇格することが確実だった。
長年続いた大蔵省とN銀のたすき掛け人事の順番から言っても、大蔵出身のMの次はN銀の番だし、Fは早くから将来の総裁と目されてきたN銀期待のプリンスでもあったからだ。
Fはそっなく、Mの命を受けて人選に動いたと強調した。
ただ、法施行後ほどなくして、自らが視点は新法の以前ではなく、以後に置く。
衣替えされる政策委が、法律の趣旨通りに機能するかどうかは、ひとえにそのメンバーの力量にかかる。
誰を選ぶか、誰が選ばれるか。
新法では政策委メンバーとなる総裁、副総裁、審議委員はいずれも国会の同意を得て、内閣が任命する手順が決められた。
しかし、その任命候補者を、N銀や大蔵省(後に財務省)などが事前に官邸に推薦し、与党に根回しして決める慣例は変わりない。
法施行時点では、当時の総裁、副総裁の任期が一九九九年十二月まで残っていたことから、人事の焦点は、新たに民間から任命される審議委員に合わさっていた。
国会での法案審議を横目で眺めながら、水面下でそうした審議委員候補者の人選に走り回ったのが、当時、副総裁のF俊彦だった。
Fは当時をこう振り返る。
「審議委員の推薦者を決めたのは総裁のM(康雄)さん。
僕は走り回り、進言申し上げただけ。
ただ、僕の頭の中では、従来のような各業界代表は完全にやめようとの思いがあった。
分野を問わず、セントラルバンクポリシー(金融政策)を形成する上で必要な人材を集める方向性と、モノカルチャーはいけないとの視点から、違った角度で高いキャリアを持つ人を探そうと意識した」(次期総裁として)政策委の指揮をとるという意識が皆無だったとは思えない。
むしろ、「頭の中にあった」と語った旧来の業界代表方式からの脱皮と、多様な人材による政策形成を意識したと明かしたように、次期総裁としての自らの眼鏡にも叶う〃ボードメンバー〃を選んだといえよう。
ただ、新法に基づく審議委員選びと同時に、旧法の政策委の補充作業も果たさねばならなかった。
実は、新N銀法が成立した時点で、旧法下での民間選出の四人の任命委員のうち二人が欠けていた。
地銀代表は、前年の九六年三月末に元滋賀銀行相談役の井倉和也が退任後、空席のまま。
大手銀行代表も九七年四月十九日に元N長期信用銀行相談役の酒井守が辞した後が埋まっていなかった。
いくら通称がスリーピングボードとは言え、民間代表者の半分が不在のままで金融政策の運営を続けるとは、政策委の形骸化も極まれりだ。
スリーピングどころか、〃ベイカント・ボード(空席委員会)〃とでも言おうか。
他の任命委員からも苦情が上がっていた。
農林系代表の任命委員のG康夫は、「いくら新法施行の前でも、これは問題ではないか」と総裁のMらに注文を付けた。
ところが任命委員は四年の任期なので、今任命すると、新法施行後の残りの任期は審議委員となる。
Gがまさにそうで、その後、審議委員としても一年半を務めた。
従って、任命委員の補充人選も、単なる穴埋めとはいかず、事実上、審議委員人事でもあったのだ。
なかなか任命委員のポストが決まらなかったのには、別の事情もあった。
地銀代表については、九六年が住宅金融専門会社(住専)処理で国会も大荒れに荒れ、大蔵省もN銀も、〃盲腸〃のようなN銀の任命委員の調整どころではなかったのだった。
それに地銀の元実力者たちにとっては、当時のN銀任命委員はあまり魅力あるポストでもなかった。
地元で名士として悠々自適で過ごせる立場なのに、任命委員になると東京勤務のうえ、土日もN銀から不幸も重なった。
大蔵、N銀の内々の調整で、ようやく次期大手銀行代表に内定した人物が不祥事に絡み取られてしまったのだ。
その人は旧第一勧業銀行元頭取で相談役だったM正次。
九七年春に発覚した同行の総会屋巨額不正融資事件がMの運命を一転させた。
官邸によるMの任命委員内定は、同行が総会屋事件に絡んでいることが、わかった後に決まっている。
恐らく、銀行が事件に絡んでいたとしても、Mはすでに五年半前に頭取の座を降りており、まさか同事件が歴代の同行トップがかかわった構造的問題だとは、当初はわからなかったためだろう。
だが、真相が明らかになるにつれ、事件の闇の深さが見えてきた。
「新法施行後の審議委員にもなる人が、醜聞を抱えていてはまずい」との見方から、五月初めに、官邸もMの起用を断念した。
事件はその後、一気に広がり、同行全体の信用が大きく揺らぐことになる。
M自身も、東京地検特捜部の事情聴取を受けた。
六月二十七、八の両日にわたった長時間の聴取の後、翌二十九日の朝、Mは自宅の書斎で総死した。
六十七歳だった。
大手銀行のトップの座を極め、N銀任命委員の名誉を掌中にする寸前で、自ら命を絶ったM。
寸前で、N銀は同行の不祥事に絡まることを辛うじて避けた。
だが、一年後にはN銀自身の積年の接待不祥事が発覚、F自身も責任をとって、法施行の直前に副総裁の座を辞するのだが、この段階でのFは、いずれ自らの身に起きることよりも、ひたすら任命委員の確保に心を砕いていた。
の緊急の連絡に備えて、居場所を明らかにしておかねばならない。
地元のポストと比べると、見返りの報酬も相対的に低く、実際に当時の社会的評価も低かった。
Fは考え方を切り替えた。
現行法では任命委員は業界代表だが、今選ぶ任命委員は新法への切り替え後は審議委員。
ならば、旧来の業界代表者よりも、むしろ新法の精神を先取りした人材を選んだほうがいいのではと。
現行法の基準を満たし、かつ新法の精神にもふさわしい人を選べないか。
Fは、国会での法案審議と、総会屋不祥事の波及で揺れる金融界を両腕みしながら、旧知の日本興業銀行頭取のN正雄に電話をかけた。
Nは前年九六年六月に頭取に就任、ちょうど一年が経過していた。
胎動する金融不安を意識し、危機に立ち向かう銀行再編の予兆を先取りせんとする模索の最中だった。
Kは、Nの提唱で、投資銀行業務でのN証券との提携をまとめた後、休む担った人々の系譜FがNに電話したのは、個人的に親しいだけではなかった。
従来、大手銀行代KやC銀、旧T銀行などから選ぶ暗黙の慣行だった。
都銀だと各行間の横並びを考慮せねばならないため、旧特殊銀行やC銀などからの人選が穏当とされてきたのだった。
D銀のMが一時浮上したのも、同行が旧N銀行の流れを引くことが理由だった。
Nは会長のK洋の意見も求めた。
「T君を充てようと思うのですが」。
黒淫にも異論はなかった。
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